現代のお金

 現代のお金は、金貨や銀貨を作ってそれを発行するシステムとはまったく違います。
 現代のお金は、預金や証券を、そのまま人から人へと流通させているものです。

 現代ではお金が生まれるのは、銀行が貸し出しをしたときです。貸し出しがあると、借り手の預金口座の数字が増え、それに見合った返済約束が生じます。増えた預金口座のお金は、それから支払いに使われて流通をはじめるのです。たいていは、預金口座のまま流通します。一部は日銀券の形になって、買い物に使われます。
 貸し出しが返済されるか、貸し倒れになると、お金の総量が減ります。

 現代のお金は、政府が一定額を発行して流通させているのではなく、市場で生まれて、膨らんだり縮んだりしています。

 このような、経済の実態に応じて伸縮するお金のシステムがあるのに、消費者には賃金というパイプでしかつながっていません。
 経済活動をしていれば、どうしても貧富の差が生じます。不況で失業者が増えることもあります。そうすると、いっそうモノが売れなくなって、また失業者が増えるという悪循環が生じます。そこから、すべてが破綻してしまうのです。それは実際に何度も起こってきました。

 経済活動は、生産と消費の両面がバランスして成り立ります。
 ベーシック・インカムは、「生活費が安定しない」とう問題を解決して、生産と消費のバランスをとろうとするものです。

 人々がほんとうに必要とし、必ず使うお金であるならば、税として集めて人々に渡すことを怖れる必要はありません。それは、経済を活性化させます。お金は血液と同じで、流れていることが大事なのです。
 税が無理であるならば、消費の側にもお金を創りだして、保有と流通の経路で自動回収するシステムを作ることができます。

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紙幣が価値を持つ理由

 紙切れでしかないお金がなぜ価値を保つのでしょうか。このことが不思議でした。

 「金貨と交換します」という兌換紙幣なら金貨と同じ価値を持つことはわかります。でも、現代の紙幣で、金貨との交換を保障しているものはありません。

 不換紙幣でも価値を持てる理由は、お金が生まれるのは銀行が貸し出しをするときである、ということを知ったときにわかりました。

 銀行は、ある範囲でなら、持っていないお金を貸してしまっていいのです。そのときにお金の総量が増えます。

 そんなことをしていいのですか? それで無責任にお金が増えてしまわないのですか?
 お金が無責任に増えることを防いでいるのは、銀行がむやみに貸し出しをすれば、そのお金は貸し倒れになることです。貸し倒れが起こると、銀行は自分の損になります。倒産することもあります。

 貸し倒れにならないように銀行は担保を取ります。返済の裏付けのない貸し出しを、銀行はしません。
 借りる方からすると、ただお金をもらったのではなく、自分の持っている資産を一時的にお金の形に変えているのです。

 現代のお金は、すでにある資産を”流動化”しているものなのです。無から生まれるのではありません。担保があって、それがお金の形になっています。
 つまり、現代のお金の価値を保障しているのは、その社会の資産と経済活動そのものなのです。

 もし、いい加減にお金が創られれば、それはたちまち銀行の不良債権という形で現れます。不良債権を不良債権として処理すれば、つまり銀行がちゃんと損をすれば、無責任に増えたお金はちゃんと消滅します。それで自浄作用が働きます。

 ところが、大問題があります。大銀行を潰すと連鎖倒産が起こって経済活動そのものが破局を迎えます。そのため、小銀行は潰れますが、大銀行は潰すに潰せず、自浄作用がちゃんと働かないのです。大銀行の無責任な貸し出し、つまりお金の創造が、まかりとおってしまうのです。

 大銀行が潰れても大丈夫な社会を創らなければならない。
 ベーシック・インカムはその役割を担うことができます。

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「生産」から「生活」へ

 経済的価値を生み出すものはなんでしょうか。
 生産でしょうか。モノやサービスを作る人がいて、それを売って経済が成り立ちます。売り上げの一部が、利益や人件費になり、それで人々は生活します。生産がなければ人件費はありえないのだから、すべての人は生産に寄与すべきです。
 これがいまの常識です。

 この常識は、それ自体は間違っていないと思います。しかし、一面からしか見ていないと思います。
 視点を変えると、ずいぶんと違って見えるものです。生活者の立場から見てみましょう。

 人間は生活するのにモノやサービスを必要とし、それを買うから経済が成り立ちます。消費のために支払われるお金から、仕入れも、設備も、税金もまかなわれます。それで生産が成り立ちます。消費がなければ生産はあり得ないのだから、すべての人は消費に寄与すべきです。すべての人の生活を無条件で成り立たせるべきです。

 生産する人がいるから経済が成り立つのでしょうか。
 消費する人がいるから経済が成り立つのでしょうか。

 どちらも必要です。当たり前ですね。

 現実はどうなっているのでしょうか。先入観を持たずに、「現在の経済は、なにがネックになっているのだろうか」と見てみましょう。日本では、人々が働かないので、モノが不足しているのでしょうか?
 違いますね。モノ不足ではないのです。街を見れば、遊休設備が多いことに驚かされます。コンビニやガソリンスタンドは、出来ては潰れています。100円ショップがあることも驚きです。

 雇われている人たちは、よく働いています。潰れる会社は、従業員が働かないからですか? 違います。生産物が売れなかったからです。商品に魅力がなくて競争に負けたのです。経営者も従業員も一生懸命に働いたけれどがむしゃらに働いただけではどうにもならないのです。

 いま、働いていない人たちが働けば、経済が上向くのでしょうか。でも、いったい何をして働くのですか? 労力さえ投入すればいい生産現場があるのでしょうか。そんな「作りさえすれば売れる」という羨ましい生産現場は、日本にはありません。
 農業時代なら、子どもや老人や怠け者たちまで駆り出して草取りをすれば、それなりの効果はありました。でも、工場や事務所では、子どもや老人にウロウロされたら、かえって生産が落ちます。
 だれでもできる仕事ということだったら、公共施設の清掃ですか? ボランティアの社会奉仕ですか? でも、それに対して給料をあげなければ、その人たちがモノを買ってはくれないから、経済は上向きません。

 ながらく、「生産本位制」と言っていい経済の考え方がありました。生産が価値を生み出すのだから、生産にお金と労力とノウハウを注げば経済はうまくいく、という考え方です。資本主義も、社会主義もこの枠の中にあります。

 しかし、現実は「生活本位制」で考えたほうがうまくいきます。価値を生み出しているのは人々の生活そのものであり、人々が生活することが、モノやサービスの必要性を生み出し、経済を成り立たせています。まず、生活水準を確保しましょう。生産力はあり余っているのです。

 企業に全員でぶら下がって、企業によって食おうとしなくてよろしい。企業は企業の論理に従って、少数精鋭のほうがいい。企業が無能な人間まで抱え込む必要はない。働くのが嫌いな人間は働かなくてよろしい。
 食うことと雇用を切り離す。企業を雇用確保の呪縛から解き放ちましょう。生活者を雇用されることの呪縛から解き放ちましょう。生活はベーシックインカムで最低保障します。

 けっこうなことですね。
 でも、こう述べてくると、どうしても出てくるのが「では、ベーシック・インカムの財源は?」です。たしかに これが大問題です。
 私は、消費税がもっとも筋がよいと思います。ゲッツ・ウェルナーの「すべての人にベーシック・インカムを」(現代書館)の消費税財源論は、納得できるものでした。ベーシックインカムと組み合わせると、「貧者に増税」という消費税の最大の欠点が消えるのです。
 しかし、現実的に、何党の政権でも大増税はできません。やれば潰れます。消費税によるベーシック・インカムの実現は難しいでしょう。

 そのために、第2案として「電子式減価マネー」があります。2年前に発表しました。賛成にも反対にも出会いませんでした。賛成・反対以前の問題で、なにがなにやらわからなかったみたいです。

 その後、研究を重ねました。電子式減価マネーは、優れモノだと改めて思いました。じっくりと、誰にでもわかる言葉を作りだしていくつもりです。

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ベーシックインカムがあれば

 世界的な経済危機が遠からずやってきそうです。
 それは来年だろうか、4、5年先だろうか、わかりません。でも、10年以上先延ばしするのは無理そうに思います。今年中に起こったとしても、おかしくはないのです。
 そのとき、ベーシックインカムがあれば、混乱を最小限にして乗り切ることができるでしょう。

 リーマン・ショックのとき、世界経済はそのまま信用恐慌に突入しそうでした。あれから3年、各国の弥縫策は功を奏しました。世界経済はそれなりの小康状態にあります。
 しかし、残念ながら、この弥縫策は持続可能ではありません。バブルがはじけそうになると、もっとバブルを作り出しているだけなのです。そのバブルの資金は国と中央銀行が供給しています。
 ところが、国には「もうこれ以上は国債を発行できない」という上限がどこかにありますし、中央銀行には「もうこれ以上は不良債権を買い取れない」という上限がどこかにあります。
 ある日、株式市場が大暴落しても債券が大暴落しても、国も中央銀行も、もう収拾する資金力がない、そういう日がやってきます。

 根本的な原因があります。
 株や債券でのマネーゲームの資金はたっぷりあるのに、人々の生活資金と、公共財を充実させる資金が不足しているのです。人々の暮らしが充実しないまま、株や債券の値段だけがバブルを起こして上がる。その自律的調整がバブル崩壊なのです。この自律調整はあったほうがいい。

 しかし、バブルがはじければ、企業が倒産し失業者が増えます。それに耐えられないので、国も中央銀行も不良債権を抱えた大企業を助け、最後は破局をもたらすまで続けます。

 ベーシックインカムがあれば、失業者が出ても、社会恐慌にはなりません。生活のための消費が下支えになって、景気の落ち込みが最小限で済みます。
 ベーシックインカムがあれば、不良債権のウミを出し切ることができる。軍備増強などではなく、生活を充実させるところから、経済を再編することができます。

 そのとき、政府に財源はもちろんないでしょう。増税も不可能でしょう。しかし、電子式減価マネーを創設すれば、自動的に定率回収して次の財源にできます。総量のコントロールが可能なので、通貨の価値を保てるでしょう。

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資本のお金と交換のお金

 お金は、その働きから見て、「資本のお金」と「交換のお金」に分けることができます。もちろん同じ¥(円)なのですが、働きが違います。

 交換のお金は、ふだん私たちが買い物をするときのお金です。モノやサービスと交換します。回収することを考えていません。使えば、他人にわたります。

 資本のお金は、貸したお金と理解すればいいです。100万円を借りた人が70万円の商品を仕入れ、30万円を経費に使っても、基の100万円は同じです。その売り上げが80万円しかなくても、貸したお金は100万円のままです。
 元手の100万円は形が変わります。しかし、貸した側の100万円が消えるわけではありません。
 資本のお金は、いろいろと形を変えますが、元の帳簿にきちんと残っています。

 バランスシート(貸借対照表)のことを理解できるなら、バランスシートの右側(資本・負債)のことです。

 現在の日本で、資本のお金は銀行がいくらでも作り出してくれます。
 ところが、交換のお金、つまり生活費のほうが不足気味なのです。買ってくれる人がいないと、生産も尻すぼみになっていきます。
 生活費のほとんどは賃金として生まれますが、それは、生産活動のおこぼれとしてしか回ってきません。それで、「資本のお金」と「交換のお金」とのバランスが悪くなってしまうのです。 

 大不況が来るときは、貧富の差が大きくなって、お金のある人たちはマネーゲームに熱中しています。お金のある人々が、資本のお金として殖やそう殖やそうとしているけれど、賃金はできるだけ抑えようとします。

 そこで、ベーシックインカムを出してバランスを取ろうという考えが出てきます。
 いくら利子を下げても、銀行貸し出しを緩めても、交換のお金が増えないと、生活は向上しないのです。

 金持ちの振る舞いが問題というとマルキストみたいですが、私はマルキストではありません。実際の経済がどのように動いているのか、それだけに基こうと思っています。

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ベーシック・インカムの経済効果

 知人に就労支援の相談をしている人がいます。相談に来る人の中には、これは生活保護を受けたほうがいい、という人もいます。しかし、生活保護をすすめてもやはり先入観があって、「そこまで身を落とすわけにいかない」と、なかなか受けようとしないケースがあるのだそうです。
 そういうとき、こう説得するそうです。

 あなたが生活保護をもらって暮らせば、そのお金がスーパーの店員の給料になる、工場で働く人の給料になる、野菜や果物を作る農家の収入になる、それでみんなが潤うのです。いま、景気が悪いのは、みんながお金を使おうとしないで貯め込むからです。あなたが生活するためにお金を使うこと自体が、立派な仕事なのです。
 相手の人は、キツネにつままれたような顔になりますが、それもそうかと納得するそうです。
 これが実は、ベーシック・インカムの経済的効果のもっともわかりやすい説明なのです。

 お金というのは、使われるときに、みんなを豊かにしていきます。お金を使うときに、食べ物や衣服などが人の手に渡り、それぞれの生活が豊かになるのです。
 野菜を作っている人がいるとして、道路がないと消費者に届きません。せっかく作った野菜は腐ってしまいます。同じように、お金がないと生産した野菜は消費者に届かないのです。お金をもらわないと、農家の人だって次の生産をすることができなくなってしまいます。お金は、生産者と消費者を結ぶ道路のようなものです。

 われわれの経済では、作りすぎたモノを腐らせたり廃棄処分したりしているいっぽうで、たくさんの人たちが生活苦に苦しんでいます。われわれは、なんとばかばかしいことをしているのでしょうか。それというのも、お金は稼ぎ取るものであって、貧乏人をやたらに助けてはいけない、という考えにわれわれが囚われているからです。

 そうではないのです。お金は公共のものです。人から人へと流れていることに価値があります。中でも、最低生活費というのはよく循環します。そこに、いつもスムースに流れるお金の流れを作ってしまえばいいのです。それがベーシック・インカムです。

 モノを作る人たちが「私が作っているからあなたたちは食えるんだ」と言います。それは正しいのですが、消費者が「私が買うからあなたたちが食えるんだ」というのも正しいのです。これまで、生産だけが経済であるように思い込まれてきました。そうではなくて、消費も立派な経済活動なのです。

(初出 『フォンテ』2010年11月15日号

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労働訓練としての教育が変わる

 ベーシック・インカムがあったら、教育が根本的に変わると思います。

 学校は、自分で考えるところであり、感受性を伸ばし協力する力を身につけるところ、ということになっています。でも現実には、小さいときから労働訓練をして将来に備えさせる面が強いのではないでしょうか。

 このことは学習指導要領にも書いてありませんし、学校目標にもありません。隠れたカリキュラムになっています。そのために、学校が実は何をしているかが検討されないまま、つまらない授業や子どもたちの人間性無視の正当化に使われています。子どもたちにとって学校が辛いものになり、子どもたちを荒ませる大きな原因になっています。具体的には次のようなことです。

1 休まない。 机に座っている。
 勉強を吸収できなくても、いじめられていても、とにかく休まないことです。なぜなら、すぐに休むクセをつけると、将来職が長続きしないから。会社には有給休暇の考え方がありますが、学校にはありません。

2 無味乾燥に耐える。
 無意味なことであっても耐える力がないと、将来仕事につけません。

3 自分の点数を稼ぐ。
 個人ごとについてまわる点数があって、学校に行ってそれを蓄積します。社会に出たとき、自分の点数と評価を稼ぐ人間にならないといけません。

4 何を手に入れても満足しない。
 先生がすぐ向上心向上心といいますね。 あれです。いい成績をとっても、賞を取っても、「それで満足してはいけない」、「上を目指せ」、「まだここが足りない」。 これがないと、働き続ける人間が育ちません。

5 目標に向かって努力する
 目標を与えるとそれに向かって努力する人間でないと、いけません。

6 学校の仕事を家庭に持ち越す
 宿題や勉強で個人生活を犠牲にするほど偉いのです。将来の残業につながります。

7 教師生徒、先輩後輩の序列を作る
 職場は、指揮系列があって、目上の言うことを聞くようになければならない場です。社会性がついてくる中学生のときに、それをたたき込みます。

 ベーシック・インカムがあったら、どうなるでしょうか。この子が、将来、最低限は食べていけるのです。愚かでも、無能でも、反抗的でも、とにかく飢え死にはしないのです。そうしたら、親も教師も、もっと楽になるのではないでしょうか。もっと子どものあるがままとつきあい、子どもが嫌がることを無理強いしなくても済むようになるのではないでしょうか。
 ベーシック・インカムがあったら、学校は次第に労働訓練の場であることをやめると思います。学校はもっと家庭的になれますし、子どもの興味関心をもっと大事に出来ます。学校が、ほんとうに学びの場になるのではないでしょうか。

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どうしてお金持ちにもあげるのか

 ベーシック・インカムへの疑問の一つに「どうしてお金持ちにもあげるのですか」があります。だってお金持ちは生活に困っているわけではないし、お金の無駄遣いになるのではありませんか? というものです。

 これに対して「ベーシック・インカムはすべての人の生きる権利に対して出すお金であり、お金持ちだからといって差別しません」。そう説明すれば考え方はきれいに示せます。でも、それだけではなかなか納得できないでしょう。もうちょっと具体的に考えてみましょう。

 社会には、お金持ちか貧しいかに関わらず、誰でも平等に受けられるサービスがあります。たとえば、ゴミ収集です。「お金持ちは有料」なんて言いません。公立学校の義務教育費も誰も無償です。救急車や消防車も、誰であろうと無料でかけつけてくれます。

 では、どういうものは、収入に関係なくサービスを提供するのでしょうか。
 それは、「人間である以上誰でも無条件で必要なもの」です。それを無条件で保障するのが政府の本来の役割です。ゴミ収集をしてもらわないと、誰でも困ります。義務教育も、救急も消防も、すべての人が必要とします。そういうものは、収入に関わりなく、無条件で一律に保障してしまうのです。

 人間である以上誰でも無条件に必要なものはなんでしょうか。なんといっても最低限の衣食住に決まっていますよね。最低限生きていくのに必要なお金、おそらく現在だったら生活保護や基礎年金の金額(月7万円くらい)でしょうか、この部分を保障するのは、生きているということだけで理由は十分です。ベーシック・インカムは、その最低限の衣食住の部分に出そうというものです。

 お金持ちを区別しない現実的な理由もあります。
 「貧しいからもらえる」なら、意図的に貧しくなる人がたくさん生じてしまいます。それはいけません。ベーシック・インカムは「金のためにいやいや働く」から人々を解放したいのですが、「金をもらうために、働くのをやめる」ことからも解放したいのです。労働を、もっと、人間らしいものにしたいのです。

 なによりも、もらう人が「貧しいから施しを受ける」立場になってしまいます。「施し」をする人の優越感と、「施し」を受ける人の屈辱感は、どちらも社会を住みにくくします。

 実際問題として、お金持ちと貧乏な人を分けるのは、極めて困難です。所得や資産がウソだらけであることは常識です。どんなに調査しても、「なんであいつがもらうのか」という不公平が生じます。調査のための手間も人件費もかかります。
 お金持ちをより分けるために手間と不平等を生み出すより、全員にあげてしまいましょう。そして、「不要な人は、公益事業に寄付する」という文化を創ったほうが、合理的ではありませんか。

 数字から計算すると、お金持ちにあげないことにしても、さほど節約になりません。日本の平均雇用者報酬は年480万円ですが、平均を超す報酬を得ている人は、1500万人程度です。これは人口の約12%です。1世帯2.6人として、家族を含めてベーシック・インカムをあげないことにしても、31%の節約にしかなりません。
 平均給与を超える人とその家族にあげないことにしても、3分の1も節約できないのですよ!

 お金持ちらしい区切りとなると年収1000万円の線で考えるのがいいでしょうが、それを超える人は、190万人しかいません。全人口の1.5%です。家族も含めて、4%程度です。その人たちにベーシック・インカムを上げないとしても、4%の節約にしかなりません。
 現実には、家族を含めて計算すると、扶養家族であるかどうかの線を引くのが、ものすごくやっかいです。パートで稼いだらどうするかとか、年金をもらったらどうするかとか、必要経費を控除するのかとか、とにかく面倒くさくなってしまうのです。

 面倒くさいことはやめましょう。ベーシック・インカムはすべての個人に出して、お金持ちには、自分がもっとも有益だと思うことに寄付してもらいましょう。

(初出 『フォンテ』2010年10月15日号)

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ベーシック・インカムは弱者保護と違う発想

 こういう意見によく出会います。
「ベーシック・インカムって、働く人も働かない人も同じにお金をもらうんですか」
「はい、そうです」
「同じなんておかしいですよ。働いている人がやる気をなくします」

 これは、生活保護の場合と混同しているんです。
 ベーシック・インカムの場合、働いた人と働かない人は同じではありません。働いた人は、給料をもらったうえに、そのうえベーシック・インカムももらいます。働かない人は、ベーシック・インカムだけです。働いた人は、稼いだ分だけ収入は多くなります。

 生活保護は弱者保護です。働かなくても、働いている人に近いお金をもらいます。そうすると、働いている人が大きな声じゃ言えないけれど、不満です。「働いても働かなくても同じかよ」って。それから「働けないってウソつけば、働かなくてお金もらえるじゃないか」って。
 それで、生活保護を受けるときはお役所の厳しい審査があります。「あなた、ほんとうに困っているんですか」って。だもんで、生活保護は受給資格者の2割くらいしかもらっていないんじゃないか、っていう推定があるくらいです。

 ところがベーシック・インカムというのは、発想がまったく違うのです。ベーシック・インカムは、働いている人ももらえます。弱者だろうが、強者だろうが関係ない。働こうが働くまいが関係ない。すべての人に、無条件で一律に支給します。

 ベーシック・インカムは貧困救済ではありません。そこが大事なところです。「困っているからあげましょう」ではないのです。「あなたもわたしもみんな人間。生きていく権利は誰も同じ」ということなのです。だから、いっさいの差別をしない。たとえ、お金持ちであっても差別しない。みんな人間じゃないですか。いらないお金なら、どこかに寄付していただけばいい。

 ベーシック・インカムは、労働の動機付けを大きく変えることになるでしょう。「働くのがつらかったら、無理しなくていい」ことになるからです。これは、人々を自由にし、社会に大変化を起こします。

 今の学校が、何も学んでいなくても、いじめられても、とにかく来させるのは「社会に出たときのため」です。我慢できる人間に訓練してあげれば、その子が生きていけるからです。たしかに、休まず遅れず文句を言わず、言われたことだけやっていれば、なんとかは食っていけるというのが社会の現実です。しかし、我慢できる人間に訓練するために、いろいろと理不尽なことを押しつけて、正邪善悪の感覚をマヒさせてしまうのです。

(初出 『フォンテ』2010年10月1日号)

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働かざるもの食うべからずか

 ベーシック・インカムというものがあって、それは政府がすべての個人に無条件に最低生活費を渡すことです。
 そう言うと、こう尋ねられます。「いいんですか、そんなことして。働かざる者食うべからずではないのですか」

 さて「働かざる者食うべからず」なのでしょうか? 
 それは、それなりわかるんです。不動産収入や金利収入で食っている人を見ると、うらやましい。うらやましいけれど、「働かざる者食うべからず」と言いたくもなります。
 職場の皆が汗水たらしているときに、誰かぐうたらしている人がいると「誰のおかげで食ってるの?」と言いたくもなります。

 でも、科学技術の成果はどこにいったのでしょうか。働ける人たちがすべて働かないと、われわれは必要な生産を行うことができないのでしょうか。

 人類はずっと、働かなくても暮らせることを夢見てきました。できれば自分だってつらくてストレスの多い労働はしたくない。だから、働かない人をみるとたまらない思いが湧きます。
 でも、科学技術の進歩を見て下さい。ブルドーザーが1台あれば、奴隷1000人分くらいの仕事をしてくれます。昔だったら布を作るのはたいへんな仕事だったのに、今は工場の機械が自動的に大量の布を作り出します。銀行のコンピュータは、ソロバン計算を不要にしてしまいました。

 そうやって、たくさんの労働が不要になりました。そこで、もし、不要になった労働の分だけ人が職を失ったら、どうなるでしょうか。その人たちは、いったいどうやって食っていったらいいのでしょうか。生活できませんね。

 不要になる労働があって職を失う人が増えると、モノが売れなくなって企業が倒産し、いっそう失業者が増えます。
 現代では、生活のために、どんな非人間的な仕事であっても、無理にでも仕事を作り出すしかないのです。

 そこで、ベーシック・インカムの考えが出てくるのです。まずみんなに無条件で生活費を渡してしまおう。そうすれば、経済も循環します。すべての人を奴隷的な労働から解放することもできます。

 「働かざる者食うべからず?」、そんなことありません。どれだけの人が働けば必要な生産ができるかは、科学技術の問題であって、道徳の問題ではありません。
 人が働かなくなって困るって? 人間は仕事をすること自体は好きです。達成感のあることをするのも、人の役に立つことも、気持ちのよいものです。いま、労働が強制的で非人間的なものだから、働く意欲の湧かない人がたくさん生まれているのではないでしょうか。

(初出 『フォンテ』9月15日号)

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もし電子ブックができたら

 ベーシック・インカムが必要になるもっとも大きな要因は、科学技術の進歩であると思う。

 わかりやすい例で考えたい。

 いま、電子ブックが発売され、普及し始めている。仮に、ほとんどの人が電子ブックを持つようになって、書籍、雑誌の多くが電子化されたとする。これは、非常に現実味のある将来予測である。学校の教科書を電子ブックにしようかという動きも真剣に検討されているくらいである。

 とうぜん、印刷業界、製本業界、製紙業界は大不況になる。たくさんの人が職を失うであろう。本屋も、淘汰されるだろう。電子ブックの見本をみることと、ダウンロードは、自宅のコンピュータでできるからである。

 いっぽう、電子ブックに伴う新しい職も生まれるであろう。電子ブック機械の製造、その販売、コンテンツ作成と頒布などである。
 しかし、これらは現在の電気製品メーカーと情報産業がちょっと手を広げるだけで済む。コンテンツ作成は、出版社がそのまま続けるだろう。

 電子ブックの普及によって、失われる雇用と、生まれる雇用では、失われる雇用のほうがはるかに大きいであろう。数を概算するだけの資料を現在持たないが、一つの業界を、電子機器メーカーが吸収すると言ってよい変化であるから、雇用はかなり少なくなるであろう。

 経営者的感覚の経済学は、手放しで生産性の向上はよいことであるとする。より少ない労働量で同じ生産ができるのはよいことだと。
 個別企業にとってはそのとおりだ。しかし、マクロ経済のことを考えないといけない。

 職を失った人たちはどうするのか。電子ブックで少なくなった雇用のぶん、どこかに新たな雇用が生まれていなければ、失業率が増加するはずである。
 また、支払われる賃金の総額は減るはずである。トータルには生活難の人が増えるし、全体の購買力も低下するはずだ。ここが、企業経営とマクロ経済の違うところである。

 高度成長期には、生産性が向上した分野が雇用を減らしても、また新たな分野の産業ができていった。完全雇用に近いことが実現されて、すべての人が購買力を持っていた。また、生産性の低い産業から、高い産業への転換は自然に行われた。
 ところが、現在、そんなにおいそれと新たな成長分野がないのである。

 流通革命が起こった。それで、雇用と賃金が増えたであろうか。
 いま、大ショッピングモールができ、ドラッグストアができ、コンビニが津々浦々にあり、ネット上でも買い物ができる。便利だ。確かに便利だ。しかし、駅前商店街はさびれ、街の薬局は姿を消していった。
 流通業界の総雇用と総人件費は減っているはずだ。ようするに、合理化したところが競争に勝ったのであるから、そのぶん流通業界の雇用と支払い賃金は減っているはずである。

 合理化は、産業革命が起きたときからの問題である。機械によって失業する労働者たちが、機械の打ち壊し運動を始めたこともある。
 けっきょく、機械は、ないよりあったほうがよかった。新しい産業と雇用が生まれて新たな雇用ができた。しかし、これはどこまでもつづくだろうか。新しい産業といっても、近年の情報産業系の新産業は、旧産業の置き換えであることが多く、雇用と賃金を減らす効果が強いであろう。

 私は、新しい打ち壊し運動を起こせという気はない。便利な機械はあったほうがよいし、人間の労働が最小限ですむようにすることは、よいことである。
 しかし、それが、人々の生活苦を招いてしまうのでは、科学技術の発達の意味がない。せっかく、少ない労働で生産が足りるようになったのに、なぜ、多くの人が生活苦に追われ、働き続けなければならないのか。

 問題は、所得=賃金というところにある。賃金によってしか収入を得られないなら、機械の発達は雇用を失わせ、経済問題を起こしてしまう。

 そのため、ベーシック・インカムが必要なのである。
 「働かなかったらどうする」って言ったって、現在の経済不況は労働力不足のため生じているのであろうか。違うではないか。生産しても買ってくれる人がいなくて不況になっているのである。
 少ない労働力で生産が足りるようになっても、雇用と賃金を減らしたら、経済全体がポシャってしまうのである。支払われる賃金の総量を確保しないと、購買力が維持できないのである。そのために、ベーシック・インカムはよくできているのである。
 最低生活のための生活費、これほどすべての人に貴重であり、経済的にも重要な需要はない。ベーシック・インカムは重要である。

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3K労働はどうなるか(2)

 ベーシック・インカムができたとき、「汚い」、「危険」、「キツい」の3K労働をする人がいなくなってしまうのではないかという疑問をよく聞く。
 さてどうなるのだろうか。
 「汚い」と「危険」は、辞める人が増える→労賃が上昇する→労働力の需給がバランスする、となると思われる。

 しかし、「きつい」はいささか性質が違うように思われる。
 典型的な「きつい」仕事である、看護、介護、という仕事の場合、仕事そのものはやりがいのあるものである。最低限でも暮らせれば、こんな仕事辞めてやる、という人は多くないであろう。ベーシック・インカムがあるからその労働条件でもいいと応募してくる人たちもあり、労賃を上げないと人が集まらないということも起こりにくいであろう。
 キツさを生み出しているのは、夜勤ありのシフト体制、重責、長い労働時間などである。ここにベーシック・インカムによる収入が増えて楽になるかというと、キツさは変わらないであろう。

 必要なのは、人員の増加と、労働時間の短縮なのである。それは、ベーシック・インカムを個人に渡すことによっては実現できず、人件費総額をどれだけ出せるかにかかってくる。
 看護や介護の場合、労賃はのほとんどは利用者からではなく、保険機構から支払われる。したがって、キツさを解消するには、保険料率アップ、あるいは増税による補助金の増加しかないであろう。

 ベーシック・インカムができれば、かならず消費が増え景気がよくなる。
 そのとき、きちんと保険料を上げ、増税し、福祉、教育、医療という領域に回さないといけない。営利的でない分野は経済ではないとみなされがちだが、そうではない。福祉、教育、医療といった分野も立派な経済であり、そこでたくさんの雇用が生まれている。福祉、教育、医療などは、金持ちしかサービスを受けられないのではいけない。そこで、誰でもがサービスを受けられるように、みんなでお金を出し合って使っているのである。

 この、「みんなでお金を出し合って使う」領域は、生活の向上のためになくてはならない部分である。
 ベーシック・インカムは、景気がよくなる分を保険料アップ、増税に回すべきなのである。そうでないと、われわれの生活はさして向上しないし、キツい労働をする人たちも楽にならない。

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3K労働はどうなるか

 「ベーシック・インカムができたら、3K労働(危険、汚い、きつい)をする人がいなくなるのではないか」という疑問を持つ方が多い。

 食うためにやむをえず3Kの仕事をしているのだから、食えるようになったらもうその仕事をしないだろう、というのは当然の発想である。
 しかし、その先を考えてほしい。トイレ掃除をする人が集まらなくなったら、どうなるか。もう少し時給を上げて人を集めるであろう。その時給ならやろうという人が増える。そうやって、需給が釣り合うところまで、時給が上がって、人が集まるようになる。
 これ、経済学の根本法則。はい、おしまい。

 で、たいていの話は済む。
 危険な仕事、汚い仕事は、ベーシックインカム後には、だいたい労賃が上がることで解決するだろう。よいことだ。危険な仕事や汚い仕事を引き受けてくれる人には、本来、尊敬と報酬で報いるべきである。食うに困った人に安い賃金で押しつけるなど、ひどいことがまかり通ってきたものだ。

 ところが、それでは済まない分野がある。
 賃金上昇が起こりにくい職種がある。外国製品と競合する分野の工場労働と、介護や看護など社会保険によるサービスである。これは、きちんと考えないといけない。

 もし、中国製品と競合している電気製品組み立て工場で時給を上げたら、製品が価格で太刀打ちできなくなる。だからベーシックインカムがあるのだからと給料を下げて、競争力をつけようとするかもしれない。
 これを認めてはいけない。最低賃金法を厳守させるべきである。というのは、ベーシックインカムの分だけ給料を下げるというのは、人件費の一部を国が肩代わりすることになるからである。不採算企業に国が補助金を出して成り立たせることはない。日本の人件費でやっていけないなら、閉鎖するか海外に出ればよろしい。

 労働集約的な企業が採算が取れなくなったのは、為替レートのせいである。トヨタやソニーが輸出で稼ぐほどに、円高で輸入品が安くなって価格が競合する企業が潰れたり、アジア諸国に移転したりしたのである。
 中小企業を助けるならば、人件費補助ではなく、トヨタやソニーなどの輸出企業に輸出平衡税を課して、円高が進行しないようにするのがよろしい。輸出企業だって、円安なら損はしないのである。際限なく輸出を続けるから、円高になってしまって、自分で自分の首を絞めてしまうのである。

 ところで、問題は介護や看護なのである。
 長くなってしまったから、詳細は次回に譲りたいが、結論からいうと、ベーシックインカムによる景気上昇に伴い、きちんと増税するなり、保険料を上げるなりして、時間あたり給与を上げるとともに、人を増やして長時間労働をなくすべきである。これが、全体の経済を活性化する。


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不換紙幣がなぜ信用されるのか

 お金がなぜ信用され、価値をもつのであろうか。不思議である。
 紙幣自体は、ただの紙切れで、あまり有用ではない。食べられない。燃えやすく破れやすい。尻を拭くには硬すぎる。
 いちおう法律で「法貨」とされていて、相手が受け取りを拒否できないことになっているが、国の法律ごときで紙幣の価値を維持できるものではない。インフレで紙切れ同然になったり、信用されなくてドルが流通したりということはいくらでも起こっている。
 紙幣の価値は、権力よりも実体経済に深く根ざしている。

 実は、紙幣はお金の姿の一つにすぎない。現代では、お金とは銀行預金そのものである。われわれは、給料も銀行振込、電気・水道代も銀行引き落としにできる。買い物はカードでできる。それらは、銀行預金があることを前提にしているのである。銀行預金がお金である。お金のほんの一部が、紙幣の形になっている。

 銀行預金としてのお金が価値を持つのは、お金が生まれるメカニズムにある。

 お金のほとんどは銀行貸出が為されるときに生まれている。銀行は、ある上限までなら、持っていないお金を貸してしまっていいのである。持っていないお金を貸すのだから、貸したときに新たにお金が生まれる。信用創造と呼ばれている。
 新規に貸出したお金はそのまま預金になり、銀行口座同士で決済に使われたり、紙幣になったりして流通しはじめる。お金が生まれたのである。

 このとき銀行は、むやみやたらには信用創造(貸出)をしない。当たり前のことであるが、返済されることが確実なときにだけ貸出をする。不動産や株式などの担保を取っている場合もあるし、人物や企業の将来性を見込んで貸している場合もあるが、返済可能だから貸出をするのである。

 したがって、現代のお金は、ただの紙切れとして発行されているのではなく、金銀を裏付けとしているのでもなく、世の中のありとあらゆる資産を裏付けとして発行され、価値を保っているのである。その資産というのは、土地や建物など有形の資産の場合もあるし、その事業の将来性という無形の資産の場合もある。有形無形の資産を、お金という形に変えて、流通させているのである。

 このような論もある。銀行は、ない金を貸して利息を取っている。空気を売っているようなものだ。だから、銀行の信用創造そのものが問題なのだという論である。これは一面的である。銀行が貸出によって生み出すお金には何の裏付けもないのではなく、「返済可能」という裏付けがある。
 信用創造によってお金を生み出すことができれば、その時々の資産や、人々の能力に応じてお金が生まれてくる。経済の実体に応じて、貨幣の総量が増えることが可能である。

 貴金属をそのまま貨幣としている経済もあった。このような経済では、経済成長が貨幣の量で制約されてしまう。お金の総量が実体経済に応じて柔軟に増減できるようにするために、どこかに信用創造が必要なのである。銀行券が発行されなければ、個人や企業が発行する手形が、そのまま流通するようになるであろう。

 しかし、実質的に銀行が空気を売っている現象はある。それは、資産価値のないもの、つまり返済の見込みのないものに対して貸出をしているときである。これは、貸し倒れになる。三大貸し倒れ源がある。バブルを起こす不動産、同じく株式、巨大であるため潰すに潰せないゾンビ企業である。どれも見てくれが立派なので、銀行がついつい貸し込んでしまうのである。じつはたいして価値のないものであったことは、後になってしかわからない。それを見抜けなかったのは、利子ほしさに銀行が欲の皮を突っ張らせているからである。

 本来は、空気を売ってもうけようとしたら、たちまち不良債権(貸し倒れ)が発生して、自動調整されるはずなのである。不良債権の発生自体は、人体にとって消化しきれないものを下痢や嘔吐で排出するようなものであり、経済の健康を保つためにどうしても必要である。
 ところが、現代の信用創造メカニズムは、不良債権の発生を先延ばしできる。倒産しかけたら、もっと貸せば企業は生き延びる。危なくなったら、貸す。これが続くかぎり、倒産は起こらない。これができてしまうのが、管理通貨制度の一番の欠点であろう。

 特に問題なのは、国の介入である。大企業が危なくなると、政治家や官庁の口利きで、銀行から融資が行われて延命措置がとられる。銀行が危なくなると、国・中央銀行から資金を提供したり、不良債権を買い上げたりして生き延びさせる。
 景気のいいときには自由主義をいい、危なくなると国に泣きつく経営者たちの責任は大きい。倒産を引き受けない自由主義は、エゴイズムである。
 しかしこれを、単に資本家のエゴイズムと捉えることはできない。大企業や銀行が潰れると、あまりにも社会的影響が大きいのである。困るのは資本家よりも、失業して路頭に迷う労働者たちであり、あえなく連鎖倒産する中小企業なのである。一企業の経営に国が介入して倒産を防ぐのも、それなりの理由がある。

 だが、国が介入したとて、いずれどこかで行き詰まる。ババ抜きのババを、国と中央銀行に掴ませてその場をしのいでいるだけなのである。国や中央銀行の方が体力があるから、その場をしのげるのである。しかし、国は国債の発行残高を殖やして償還と利払いに追われ、中央銀行は資産状況を悪化させる。いつかは限界が来る。
 そのときは、たまりにたまったウミがいっぺんに出てくる。貸したはずの金が、戻ってこないとわかる。Aさんが返せなくなれば、Aさんに貸したBさんも破産し、同じようにCさんもDさんも破産する。連鎖反応が起こる。国すら、借りた金を返せなくなり、新たな国債を発行できなくなる。恐慌である。

 現在の世界経済は、たまりにたまった不良債権を、国と中央銀行からの追加資金提供でかろうじてしのいでいる状態であり、このままではいつかはドカンがやってくる。それは、もう10~15年先かもしれない。しかし、来月起こったとしてもおかしくはないのである。

 ウミ(不良債権)は早いところ出して、雪崩が起こるのを防ぐべきである。ゾンビ企業を昇天させるなり、スリム化するなりしないといけない。
 ところが、これをやると、人員整理が大量に起こる。失業者が巷にあふれる。新しい仕事が生まれ労働力の移動が起こるまでは時間がかかる。その間にたいへんな社会不安が起こる。だから、ウミは出せないのである。そこで、たくさんのゾンビ企業が徘徊し、貴重な資金と労力を浪費していくのである。
 ゾンビの昇天をまったくやらなかった国がある。ソ連である。ソ連をバカにした国々が、ソ連と同様の経過をたどっている。

 そこで、いよいよ本論である。

 「企業を助けるな。人を助けろ」

 土地や株式の投機に失敗したり、経営不振になった会社は、早めに自己責任を取らせるべきである。それに伴う失業と混乱を防ぐのに、ベーシックインカムが役立つのである。
 ベーシックインカムがあれば、人が路頭に迷わないで済むのである。経済がおかしくなっても、立ち直りが早い。
 みんなに収入があるから、消費の落ち込みが少ない。
 失業保険の充実も同じ効果があるが、すでに働いて掛け金を払っている人しか恩恵に浴せない。それよりむしろベーシックインカムのほうが、失業だけでなく人間を奴隷的労働から解放し、労働の質を飛躍的に高めるであろう。

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科学技術の進歩がベーシックインカムを生み出す

 古来、人間は一生懸命働いて、生産をかろうじて保ってきた。人々は、「この苦しい労働から解放されたらいいのに」と願ってきた。
 そして産業革命が起こり、IT革命まで起きて、われわれは、たくさんの機械を駆使して、効果的に生産をあげるようになった。

 農業で、多くの労働が機械に置き換わった。工場で、労働者のかわりに機械が動くようになった。
 理想は実現した。人間があくせく働かなくても、十分な生産ができるようになった。人間のかわりに、機械という見えない奴隷がたくさん働いている。

 それで人々は十分な余暇と自由を手に入れたのか。
 とんでもない。人間たちは、失業と窮乏に直面したのである。

 簡単な理屈ではないか。
 人間が労賃で生きるかぎり、人間は働き続けるしかないのである。どんなに科学技術が進歩しても、わざわざ科学技術の恩恵が及ばないところに、きつくてみじめな仕事を見つけるしかないのである。

 そんな必要があるのか。
 労働と所得を切り離して、いわゆる「金にならない仕事」に、人々がもっと向かって行けるようにしたほうがいい。その方が、社会全体としてはよっぽど豊かになる。

 これが、ベーシックインカムが必要になる最大理由なのである。

 さらにである。生産する方だって、買ってくれる人たちがいなければ売れない。
 労賃でしか生活費を渡せないなら、経営を合理化して人件費を切り詰めほどに、生活に回る金が少なくなる。結局モノが売れないから、企業だってもうからない。生産力は有り余っているのに、町には貧しい人たちがたくさんいるという現象が起こる。

 生活費を人々に渡す別な手段を発明しないと、われわれは、生活費減 → 売上減 → 賃金カット、失業 という悪循環を繰り返して、下降スパイラルをどんどん落ちてしまうのである。

 科学技術文明の成果を人々が享受するには、「働いた者にだけ生活費を渡す」ことを、疑わなければいけない。そこでベーシックインカムという考え方が登場するのである。


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最低生活費は、社会維持のインフラ

 経済の需給ギャップが言われ、需要創出が言われる。
 しかし、経済のもっとも自然で確実な需要は、すべての人々の生活費のはずである。それは、無理した人為的な需要ではない。

 生活に困っている人がいる。いっぽうで生産過剰で困っている人がいる。双方をつなぐパイプがあれば、どちらもうまくいく。
 お金を、生産と消費をつなげるための道路だと考えるべきである。トラックが走る道路がないと生産物が消費者に届かないように、消費者から生産者に渡すお金がないと、生産者が次の生産をできないのである。

 最低生活費は、社会維持のためのインフラストラクチャーなのである。また、すべての人の生きる権利の保障である。ベーシックインカムを出して、すべての人に最低生活費を渡してしまえばいいのである。これは贈与でないといけない。消費者にお金を貸しても返せるはずがない。消費者に貸したら、サラ金である。

 でも、お金をただ発行して贈与すると、けっきょくインフレかバブルになる。お金が循環している時に税で回収して、つぎのベーシックインカムの資金にすればよい。所得税タイプでも消費税タイプでも、ベーシックインカムを構築することができる。税率は高くなるが、所得となって戻ってくる金も多くなる。ベーシックインカムは、魔法でもイカサマでもなく、再分配なのである。最低生活費という、もっとも経済効率のよいところに、資金を集中させようということなのである。

 すべての人の最低生活費を保障するということだけだったら、低所得者だけに生活補助をするという方法でももちろんよい。しかし、低所得者だけにお金を渡す方法は、労働のインセンティブを損なうという大きな問題がある。
 所得が低いほど多くの金をもらえるなら、働くのはばかばかしくなるのである。
 無条件で一律に生活費を渡すベーシックインカムなら、働いて収入を得たぶんは、働かない者との差に確実になるのである。

 ベーシックインカムを出した場合、大きな社会変動が起こるであろう。それは、労働が「食うためにはやむを得ない」から「やりがい重視」へと転換してくることである。誰もが、最低限食うことには困らなくなるからである。これは、無駄な、意欲のない労働を消滅させ、生産を著しく効率的にするであろう。


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福沢諭吉心訓とベーシックインカム

 福沢諭吉の「心訓」は、人間がどうしたら幸福になれるかの有名な7ヵ条だ。福沢諭吉本人の作かどうか疑問なのだそうだが、いい事を言っている。ベーシックインカムとの関係からコメントしてみたい。

○世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事を持つことです

 ベーシックインカムがあると、仕事の最大の関心は「食える」ことから、「やりがい」へと移ってくる。ベーシックインカムがあれば、人々は、奴隷的労働は放り出すことだろう。でもこんどは、食うためではなく、一生涯を貫く仕事を持とうとするだろう。

○世の中で一番みじめなことは教養のないことです

 本当に教養があるというのは、知識の多い少ないではなくて、自分の損得を離れて物事を見る視点を持っていることだ。ベーシックインカムによって、奴隷的労働や奪い合いの世界から解放されると、やはり教養ある人は増えるだろう。

○世の中で一番寂しいことは仕事のないことです

 これが人間本来の性質である。ウソだと思ったら、自分で体験してみたまえ。ベーシックインカムがあっても人々は働くだろうということが実感できるはずだ。

○世の中で一番醜いことは他人の生活を羨むことです

 ベーシックインカムがあると、自分の労働を売るかどうかは自分で決めればいい。心は奴隷にならずに生きられる。働かなくても最低限は生きられる。働けば、もっとよい生活ができる。どうして、他人を羨む必要があるだろうか。

○世の中で一番尊いことは人のために奉仕して決して恩に着せぬことです

 ベーシックインカムがあると、奴隷的労働からは解放される。奉仕精神に満ちた行為は多くなるだろう。
 しかし、奉仕して、恩に着せるか着せないかは、その人しだい。

○世の中で一番美しいことは全てのものに愛情を持つことです

 愛情はその人の心の問題、金のあるなしに関係ないところから湧き出る。ベーシックインカムがあるから愛情を持つようになるわけではない。
 しかし、人々が愛情を持つことができたら、ベーシックインカムが生きる。
 同じベーシックインカムを渡すにしても、「このゴク潰しめ。だれのお陰で食えてるんだ」と言って渡せば人を殺す。「これであなた自身をほんとうに生かしてください」と言って渡せは、人を生かす。

○世の中で一番悲しいことはうそをつくことです

 ベーシックインカムがあろうとなかろうと、ウソをつく人はウソをつく。


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ベーシックインカムは奴隷的労働からの解放

 古代ギリシャや古代ローマの人たちは、奴隷制に疑問を持っていなかった。

 ギリシャやローマの教養ある人士はおそらくこう言ったであろう。
 「もし、奴隷がいなかったら、われわれは必要なものを生産できないだろう」
 「奴隷は怠けることしか考えていない。彼らを解放しても、働かない。われわれが監督して働かせているから、われわれの社会は維持されている」

 現代の人々は、奴隷制を克服したと信じている。たしかに、鎖でつなぎ鞭で脅す奴隷制はない。しかし、生活するために自らの労働力を売ることが、自発的労働と言えるだろうか。生活費を労賃でしか稼げないことは、現代の奴隷制ではないだろうか。
 ギリシャ人が奴隷制の悪に気づいていなかったように、現代人は賃金労働が人間を奴隷に貶めていることに気づいていない。

 ベーシックインカムは、現代の奴隷解放である。人々の最低所得を保障し、奴隷的労働から人間を解放する。

 現代の教養ある人士は言うであろう。
 「人間は怠惰なものだ。労働者たちの生活を保障したら、彼らは働かなくなる。彼らが働かざるを得ないようにしないと、われわれの社会は維持できない」

 これは原因と結果を取り違えている。
 奴隷的労働を余儀なくされているから、怠惰になるのである。
 


 

企業を助けるのではなく人を助ける

 日本航空が2010年1月19日に会社更生法を申請した。他にも、経営危機がささやかれる大企業はいくつもある。

 日本航空にはこれまでに、政府保障のある資金が入っているし、これから公的資金が注入される。もともとは国策会社だったのだから、目に見えない公的援助はかなりのものであろう。
 もっと早く手を打っていれば、傷も小さくて済んだであろう。

 経営に失敗した私企業が淘汰されるのは、当たり前のことである。淘汰があるから、全体経済としては健全さを保てるのである。それ自体はおかしいことではない。
 経営に失敗しなくても、時代が変化するため国内の業種全体が縮小せざるを得ないこともある。かつての石炭、近年の衣料品製造などがそうである。

 そのときの大問題が、人員整理である。たくさんの失業者が出る。だから、大企業が倒産しそうになると、政府が直接に間接に助けざるを得ない。社会不安を防ぐのが政府の仕事だからである。
 しかし、政府が企業を助けようとしても、助けきれるものではない。経営責任も問わなければいけない。国の仕事は、私企業を助けることではなく、人を助けることであろう。

 ベーシックインカムがあると、職を失った人たちが、路頭に迷わずにすむ。安心してそれなりの生活ができるし、職探しもできる、スキルアップもできる。
 ベーシックインカムは一人一人の額としては失業保険より少ないであろうが、失業したときの安心度は失業保険より高いであろう。まず、ベーシックインカムは期限がない。いつか訪れる打ち切り期限に不安にならなくて済む。次に、ベーシックインカムは家族の個人個人にも出されているから、家族全体の支給額としてはけっこう大きい。

 しかも、ベーシックインカムなら、どの企業につとめていたからという条件が一切ない。どんな人でも受け取れる。

 企業に安易な首切りを許してはいけない。それは、企業も社会的存在である以上、当然の責任である。不当な解雇が規制されることは、ベーシックインカムがある社会でも同じである。
 しかし、経営は大きくなるだけが経営ではない。小さくすることもまた経営である。経営上の合理的な判断であるならば、規模を縮小したいときに縮小できることが、経営の大失敗を未然に防げる。個人の無条件の生活保障と、企業の解雇規制の緩和が、同時に為されるべきである。

 ベーシックインカムがあると、人員整理がしやすくなり、企業の再建、淘汰が早くなる。死に体の企業を、公的資金を注入してまで延命させなくなる。労働者は、十分に休養したり、スキルアップして、新しい発展分野に移動していく。産業構造の転換は迅速になる。
 最終的な不良債権の発生、失業者の発生は大幅に少なくなるであろう。


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自分の会社の最善だけでいいのか

 それぞれの人間や会社が、自由にそれぞれの利益を追求すれば、自然とうまく行くのだという考え方がある。しかし、個別の会社の利益追求が、全体としての最善になるとは限らない。

 たとえば、漁師たちがある湖で魚をとっているとする。
 ある漁師が大型船と大きな網を導入し、たくさん魚を捕るようになった。たくさん取れるから、魚の値段が下がる。もっと魚を捕らないと、やっていけなくなる。漁師たちは競って大型船を導入する。
 それを続けていれば、やがて魚は取り尽くされてしまう。すべての漁師は破産してしまう。
 個別の漁師はそれぞれの利益を追求しているが、全体は破滅する。

 経営者の立場から見て、ベーシックインカムがなぜ必要なのかも、これと似ている。起こるのは乱獲ではなくて、人件費の乱削減である。
 不景気が来たとき、会社は雇用を減らし、人件費を削る。それをやらないところは競争に負けて潰れる。そうすると、働いている側の家計の収入はどんどん減る。それでは、モノが売れなくなる。売上げが落ちるから、会社はもっと雇用と人件費を削る。そこで、もっと消費が減る。大不況になる。
 個々会社は当然のことをしている。しかしそのために、全体は破滅的な状況へと突っ走るのである。

 こういうとき、すべての人の最低所得を保障してしまえば、経済活動は保たれる。生活者のほうにカネが渡されることが重要なのだ。金利を下げてもだめだ。いくら融資が受けやすくても、売上げが伸びなければ、借金返済のメドは立たないではないか。
 
 働かない人間にも所得を保障するというと、多くの人が「そんなバカな」と眼を剥くであろう。
 しかし、労働の報酬以外の所得がないと、全体の購買力を保つことができないのである。一つ一つの会社は人件費削減を考えざるを得ないが、全体に対してそれをあてはめてはいけないのである。


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